「自分がこの世にいないような寂しさを感じる時に観たい作品がなかった」と言う江本純子。まわりが楽しんでいる時にも、マイノリティは同じように安心して笑ったり泣いたりすることができない。であれば、レズビアンに向けた最高にパワフルなエンターテインメントを作ろうとうまれたのが『真夜中に寂しくなったときに観たい演劇』だ。2025年に初演し、リクリエーションにより舞台芸術祭「秋の隕石2026東京」にて再演される。作・演出・出演の江本と、小説執筆や性の政治をめぐる視点から文化芸術の批評も書いてきた鈴木みのりに、性的マイノリティにとっての表象とその創作について語ってもらった。
◆劇場は誰でも来られる場所であってほしいのに
――江本さんが初演の時に言われていた、「真夜中のような寂しさ、まるで自分がこの世にいないような寂しさをなんとかしてくれそうな演劇を、自分でも描かないといけないと思った。レズビアンとして」というようなことが印象的でした。
江本:映画やドラマはマジョリティの客層に向けて作られているんですよ。レズビアンが出ていてもただの材料でしかない。だから私は逆に、レズビアンという性的マイノリティが寂しさを感じない作品を作りたいと思ったんです。
鈴木:2010年代半ばから「LGBT」、2020年代には「クィア」という言葉が広まってきて、演劇・舞台芸術とも通じる映画やテレビドラマではBLや、最近だとGLといった「ジャンル」として同性愛が表象される傾向が強いですよね。でも、ほんの少し前まで「おかま」「オネエ」「女男」「おなべ」といった言葉と共に、メディアや、演劇でも揶揄や蔑視まじりで表現されてきた。なのに、今はそういった歴史はなかったかのように、あくまでマジョリティ向けの消費物として同性愛や性別移行の物語が扱われている傾向も少なくないですよね。
江本:そういった作品の多くについて「Bury Your Gays(ベリー・ユア・ゲイズ/※性的マイノリティの登場人物が不幸になる物語の意)」とはよく言われますが、まさに性的マイノリティは物語の材料になっている。マジョ観客はなにも考えず「面白かったね!」と楽しんで忘れることができるけど、性的マイノリティ側は明日以降も考え続けなきゃいけない。
鈴木:さらに、そのマジョリティの人たちだけでなく性的マイノリティである人たちのなかにすら、ジェンダーやセクシュアリティといった言葉が何を指しているかもわかっていない人が多いと思います。「クィア」という言葉は単に性的マイノリティの言い換えじゃない。でも、なんとなく使われ続けている風潮にもあまりよくないものを感じていて、わたしは、近年はカッコに括って使ったり、こうして注釈をつけて話すようにしたりしています。だから話が長くなっちゃう(笑)。異性愛と、性別移行をする必要もなければ性別違和も感じないシスジェンダーを「当たり前」「正常」とする社会で「おかしい」「異常」とされ、機会や権利を奪われてきた人たちを生む社会を問い直す、政治的な言葉であるはずで、政治や、教育・福祉が不足するのを補い合うコミュニティや、そういう格闘の歴史と不可分。だからこそ、まさに「クィア」である状態は「Bury Your Gays」のように不幸であるか、あるいは笑いや見下しの対象となる立場と見なされる現実を、「明日以降も考え続けなきゃいけない」。そのアイデンティティは消費物ではなく、日常であり、その日常にたくさんの困難や障壁や、政治課題もある。同時に喜びや快楽も怠惰もあるはずなのに、ポジティブさや無意識な状態とは切り離されている。
江本:わかります。だからこそ、性的マイノリティが観終わった後に忘れてもいいエンターテインメントを作りたいんですよね。むしろマジョリティの皆さんには、観劇後に忘れられず、自分には特権的なところがあるんだという自覚を持ち帰って悩んでみてほしいです。
鈴木:イケイケドンドン可視化するぞと雑に「LGBT」や「クィア」といった言葉が使われまくって、これらの言葉が広告のコピーのように広められるなかで、マジョリティの「わあ、自分はなんて無自覚だったんだ。反省しなきゃ。シュン」みたいなのに、マイノリティ側が付き合って、聞き役や赦し役になる必要はないと思います。
◆劇場は誰でも来られる場所であってほしいのに
――江本さんが初演の時に言われていた、「真夜中のような寂しさ、まるで自分がこの世にいないような寂しさをなんとかしてくれそうな演劇を、自分でも描かないといけないと思った。レズビアンとして」というようなことが印象的でした。
江本:映画やドラマはマジョリティの客層に向けて作られているんですよ。レズビアンが出ていてもただの材料でしかない。だから私は逆に、レズビアンという性的マイノリティが寂しさを感じない作品を作りたいと思ったんです。
鈴木:2010年代半ばから「LGBT」、2020年代には「クィア」という言葉が広まってきて、演劇・舞台芸術とも通じる映画やテレビドラマではBLや、最近だとGLといった「ジャンル」として同性愛が表象される傾向が強いですよね。でも、ほんの少し前まで「おかま」「オネエ」「女男」「おなべ」といった言葉と共に、メディアや、演劇でも揶揄や蔑視まじりで表現されてきた。なのに、今はそういった歴史はなかったかのように、あくまでマジョリティ向けの消費物として同性愛や性別移行の物語が扱われている傾向も少なくないですよね。
江本:そういった作品の多くについて「Bury Your Gays(ベリー・ユア・ゲイズ/※性的マイノリティの登場人物が不幸になる物語の意)」とはよく言われますが、まさに性的マイノリティは物語の材料になっている。マジョ観客はなにも考えず「面白かったね!」と楽しんで忘れることができるけど、性的マイノリティ側は明日以降も考え続けなきゃいけない。
鈴木:さらに、そのマジョリティの人たちだけでなく性的マイノリティである人たちのなかにすら、ジェンダーやセクシュアリティといった言葉が何を指しているかもわかっていない人が多いと思います。「クィア」という言葉は単に性的マイノリティの言い換えじゃない。でも、なんとなく使われ続けている風潮にもあまりよくないものを感じていて、わたしは、近年はカッコに括って使ったり、こうして注釈をつけて話すようにしたりしています。だから話が長くなっちゃう(笑)。異性愛と、性別移行をする必要もなければ性別違和も感じないシスジェンダーを「当たり前」「正常」とする社会で「おかしい」「異常」とされ、機会や権利を奪われてきた人たちを生む社会を問い直す、政治的な言葉であるはずで、政治や、教育・福祉が不足するのを補い合うコミュニティや、そういう格闘の歴史と不可分。だからこそ、まさに「クィア」である状態は「Bury Your Gays」のように不幸であるか、あるいは笑いや見下しの対象となる立場と見なされる現実を、「明日以降も考え続けなきゃいけない」。そのアイデンティティは消費物ではなく、日常であり、その日常にたくさんの困難や障壁や、政治課題もある。同時に喜びや快楽も怠惰もあるはずなのに、ポジティブさや無意識な状態とは切り離されている。
江本:わかります。だからこそ、性的マイノリティが観終わった後に忘れてもいいエンターテインメントを作りたいんですよね。むしろマジョリティの皆さんには、観劇後に忘れられず、自分には特権的なところがあるんだという自覚を持ち帰って悩んでみてほしいです。
鈴木:イケイケドンドン可視化するぞと雑に「LGBT」や「クィア」といった言葉が使われまくって、これらの言葉が広告のコピーのように広められるなかで、マジョリティの「わあ、自分はなんて無自覚だったんだ。反省しなきゃ。シュン」みたいなのに、マイノリティ側が付き合って、聞き役や赦し役になる必要はないと思います。