9月18日、19日の2日間、東京・すみだパークシアター倉にてシニフィエ『百合鴎』が上演される。シニフィエにとって2年ぶりとなる長編の上演。開幕を前にこれまでの歩み、劇作家としての思い、本作への意気込みについて、作・演出の小野晃太朗に話を聞いた。
■上演活動休止中にも戯曲を書き続けて
本作は、新たに始まった「すみだ五彩の芸術祭」の参加作品で、第69回岸田國士戯曲賞最終候補作にもノミネートされた小野晃太朗による新作戯曲でもある。「拐かし」「盗み」「殺し」の絡んだ物語である能の『隅田川』、歌舞伎の『隅田川続俤』、『都鳥廓白浪』の隅田川物の古典3作品を下敷きに、現代の「悪」をテーマに新たに立ち上げる群像劇。トクリュウや移民問題などの喫緊の社会問題も織り込みつつ、親子・友人・恋慕の情などの古典劇の要素を活かして、都市生活者の日常を切々と描く。
――シニフィエとしても、そして小野さんにとっても初のインタビューとのことなので、まずはこれまでの歩みからお聞かせいただけたらと思います。
小野:個人活動の屋号として「シニフィエ」を使い始めたのは、大学(日本大学芸術学部)卒業後の2015年頃からでした。自分は演出には向いてない、そんな大変なことはできないと思っていたのですが、在学中から劇作コースを専攻し、戯曲を書いていたので、卒業後も書き続けようとは思っていました。
元々文章を書きたくて、小説や映像脚本など他のジャンルもあったのですが、大学受験を前に母に野田地図の映像を見せてもらって劇作という選択肢を意識し始めたんです。母はまさに小劇場ブームの真っ只中を経験した人で、会社でも社員間でチラシの束が回ってきて観たい芝居に付箋つけてまとめてチケットを取る、みたいなことがあったみたいで。そんな背景もあり、「映画や小説も好きみたいだけど、演劇もいいんじゃない?」と。そんなこんなで大学時代は劇作を学びながら、授業の実習で演出部に参加したり、同期や先輩の劇団に俳優として少し出演したりしていました。
――卒業後には公演を打ったりもしていたのでしょうか?
小野:後輩の劇団と合同公演をギャラリーで行って、劇作のプロセスも展示したりしていたのですが、働きながらという状況もあり、なかなか継続は難しく……。そんな折に打とうとしていた公演が中止になっちゃったんです。結構その時のダメージが大きくて、主宰や演出はやっぱり向いていないんじゃないか、ということを改めて考えさせられ、シニフィエの上演活動としてはお休み期間に入りました。同時に、そんな風に自分から引き算をしていって最後に残るのは戯曲だったりするのかな、とか。そういうことを考えたりもしていました。
――シニフィエのお休み期間中も戯曲の執筆は続けられていたのですね。
小野:大学の頃にある先生が「作家っていうのは職業じゃなくて性格だから、ほっといても何かを書き出すんじゃないか」と言っていて……。だから、「書こう」というモチベーションがなくなったら、自分はもう作家でもないということだ、と思っていたんです。そしたら、やっぱりふと書きたくなる瞬間がおとずれて……。仕事も忙しかったんですけど、話がまとまった状態でAAF戯曲賞に出してみたら、一次選考を通過し、審査員の方からのコメントが載っていたのが本当にうれしくて、もう一度この人たちに読んでほしいなと思ったんですよね。それで、翌年はより集中して、その時に考えていたことや自分自身の内に深く食い込んだものを書いたら、大賞をいただいて。
■上演活動休止中にも戯曲を書き続けて
本作は、新たに始まった「すみだ五彩の芸術祭」の参加作品で、第69回岸田國士戯曲賞最終候補作にもノミネートされた小野晃太朗による新作戯曲でもある。「拐かし」「盗み」「殺し」の絡んだ物語である能の『隅田川』、歌舞伎の『隅田川続俤』、『都鳥廓白浪』の隅田川物の古典3作品を下敷きに、現代の「悪」をテーマに新たに立ち上げる群像劇。トクリュウや移民問題などの喫緊の社会問題も織り込みつつ、親子・友人・恋慕の情などの古典劇の要素を活かして、都市生活者の日常を切々と描く。
――シニフィエとしても、そして小野さんにとっても初のインタビューとのことなので、まずはこれまでの歩みからお聞かせいただけたらと思います。
小野:個人活動の屋号として「シニフィエ」を使い始めたのは、大学(日本大学芸術学部)卒業後の2015年頃からでした。自分は演出には向いてない、そんな大変なことはできないと思っていたのですが、在学中から劇作コースを専攻し、戯曲を書いていたので、卒業後も書き続けようとは思っていました。
元々文章を書きたくて、小説や映像脚本など他のジャンルもあったのですが、大学受験を前に母に野田地図の映像を見せてもらって劇作という選択肢を意識し始めたんです。母はまさに小劇場ブームの真っ只中を経験した人で、会社でも社員間でチラシの束が回ってきて観たい芝居に付箋つけてまとめてチケットを取る、みたいなことがあったみたいで。そんな背景もあり、「映画や小説も好きみたいだけど、演劇もいいんじゃない?」と。そんなこんなで大学時代は劇作を学びながら、授業の実習で演出部に参加したり、同期や先輩の劇団に俳優として少し出演したりしていました。
――卒業後には公演を打ったりもしていたのでしょうか?
小野:後輩の劇団と合同公演をギャラリーで行って、劇作のプロセスも展示したりしていたのですが、働きながらという状況もあり、なかなか継続は難しく……。そんな折に打とうとしていた公演が中止になっちゃったんです。結構その時のダメージが大きくて、主宰や演出はやっぱり向いていないんじゃないか、ということを改めて考えさせられ、シニフィエの上演活動としてはお休み期間に入りました。同時に、そんな風に自分から引き算をしていって最後に残るのは戯曲だったりするのかな、とか。そういうことを考えたりもしていました。
――シニフィエのお休み期間中も戯曲の執筆は続けられていたのですね。
小野:大学の頃にある先生が「作家っていうのは職業じゃなくて性格だから、ほっといても何かを書き出すんじゃないか」と言っていて……。だから、「書こう」というモチベーションがなくなったら、自分はもう作家でもないということだ、と思っていたんです。そしたら、やっぱりふと書きたくなる瞬間がおとずれて……。仕事も忙しかったんですけど、話がまとまった状態でAAF戯曲賞に出してみたら、一次選考を通過し、審査員の方からのコメントが載っていたのが本当にうれしくて、もう一度この人たちに読んでほしいなと思ったんですよね。それで、翌年はより集中して、その時に考えていたことや自分自身の内に深く食い込んだものを書いたら、大賞をいただいて。